「あなたの生き方は他人が決めますか?」
この問いに
- 何言ってるんだよ
- 自分の生き方は自分で決めるよ
- 他人が決めるってなに?
など、思うはずである。
そう、自分の人生なのだから、自分で決めればいいのである。
それではなぜ「生きずらい世の中」だったり「どこか面白くない人生」とか思うのだろうか?
私は極度のストレスでうつ状態になり、病院を受診したところ「双極性障害(躁うつ病)」と診断された。
会社を休職して何もない透明な日々を送っていたとき、「このまま生きていて何の意味があるのか」と思うようになり、具体的に終わりを意識するようになったのである。
周りからは「早く元気になれよ」とか「変なこと考えるなよ」とか言われ、私は「元気になり、また生き続けなければいけないのか」と絶望にも似た感覚を覚えた。
今回この記事では、こんな私が「生き方」について考えたことをお話する。
なぜ面白くない人生と思うのか

それは「他人の軸で生きているから」
ある本の中に
あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に通い、それなりの高校や大学に入って遊んだあとどこかの会社に入社して、結婚して子どもをつくって、せいぜい課長か部長まで出世して、60歳半ばで退職し、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って死ぬ。
どうせこの程度のものだ。
しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる人生なんだ。
『なぜ生きる』より
また今日も同じ人とすれ違う。私もあの人も決まった行動の繰り返しなんだと実感する。
ゴールのない単調な日々、「頑張って生きていれば、そのうちいいことがあるよ」と無責任な言葉を聞かされても、「人生の目的」がはっきりしない限り、私もあなたも深い闇の中にいて同じ場所をグルグルと回っているだけなのだ。
人間は少なからず集団の中で生きている。
自分の生き方をしているつもりでも、他人の意見や価値観に振り回され、「自分はどう見られているのだろうか」などと気になり、挙句の果てには評価欲しさに「媚びり」、「八方美人」になっていく。
こうなると「他人の評価=自分の価値」となり、自分の生き方を捨て「他人の軸」で生きていくことになる。その結果、他人の行動や考え方が変化するごとに「自分の生き方がブレる」ことになるのである。
これが私の考える「生きずらい世の中」の正体であり「面白くない人生」の根本なのだ。
これではいつまでたっても「自分に自信が持てない」「勇気がでない」と苦しむはずである。
自分の軸で生きるためには

私も自分の価値観で生きてきたつもりだった。
仕事も真面目に取り組み、一生懸命努力を重ねてきたつもりであった。
しかし結局のところ「真面目な自分」「一生懸命に努力」は自分の価値観ではなく、他人の評価欲しさに「他人の価値観」で生きていたのである。
「自分らしく」=「利己主義」ではない
誤解してはいけないのは、「自分らしく」あることとは自分勝手や他人を軽視することではないこと。
自分らしくとは「物事を自分の基準に照らし合わせ決断すること」だと思う。
自分の基準で決断したことには目的がハッキリする。全ての行為が意味を持つ。そして充実した生き方となる。
たとえ、その中で失敗があったとしても、それらもあなたの力となる。
他人を変えることはできないが、自分を変えることはできる
まず他人を変えようと思っても無理である。
自分らしく生きるためには「自分を自分の基準に照らし合わせ、自分を変えると決断」することが重要だ。
ここに「他人が入り込める余地」はない。
私たちは他人の言葉に一喜一憂する。他人からどう見られているか、つねに気をつかい、神経をすり減らす。「人に笑われるような者になるなよ」と親や教師から教訓されもした。自己を知る大きな信頼を、他人という鏡に寄せているといってもよかろう。だが果たして、他人は適正な評価をしているのか、というよりもできるのだろうか。
『なぜ生きる』より
「ご都合主義でコロコロ変わる、他人の価値基準の曖昧さと、無責任さを笑おうではないか」
「他人の評価なんて曖昧で無責任」なものだ。
他人の価値観で生きていても、その他人は結局、あなたの人生の責任をとってはくれない。とれるはずもない。
自分らしく生きるということは、ブレない自分の在り方を芯にたずさえ、自分の生き方に責任を持つということ。
まずは他人の軸から自分の軸へ変えていく必要がある。
「苦労して、恥をかき、涙を流して」も、そして「いくら笑われても」、自分らしく生きるあなたは「魅力的で最高にかっこいい」のだ。
最後に

「他人はあなたの人生の責任をとってはくれない」
「あなたは自分の価値観で自分らしく生き、自分を評価すべきである」
最後に、もう一度問う。
『あなたの生き方は他人が決めるものですか?』
<今回、参考にした本は>
<自分軸で生きる3つの方法>
